衆道とは。名をはせた武将の同性愛、その観点から戦国時代を知る

  

衆道とは、男性同士の同性愛です。平安時代から続いているその文化は、戦国時代に武将のあいだで花開きました。名のある武将たちを衆道の観点から眺めてみると、戦国時代の別の面白さに気づかされます。衆道の知識を深め、戦国時代を学びましょう。

衆道について知識を深めよう

男性同士の同性愛のこと

衆道は「若衆道」の略で、衆道は「しゅうどう」ではなく「しゅどう」と読みます。男性同士の同性愛のことですが、平安時代から続くある種の日本文化といえるでしょう。平安時代には公家や僧侶のあいだで広まっていましたが、中世の室町時代に入ると武士の主従関係の価値観と融合して一気に花開きました。

戦国時代は男尊女卑の価値観や、家同士のつながりを尊重する風潮もあり、そのため現代と比べて、男性同士の恋愛には寛容な時代背景だったのです。武将間のラブレターや、衆道の作法を記したものも現存しています。

僧侶や、武士のあいだなど女人禁制や男尊女卑といった男性上位の価値観。その中で、さまざまな恋愛関係が繰り広げられてきました。その観点から歴史をみることも面白いのではないでしょうか。

特に武士同士の同性愛のことを衆道と呼ぶ

衆道とは同性愛や少年愛のことですが、特に武士同士の同性愛のことを指すことが多いです。武士といえば戦国時代ですが、戦場に女性を連れて行くことはできないので、女性の代わりにお小姓に性欲処理の相手をさせたことが始まりだと言われています。

衆道は現代の男色などと異なり、家臣との上下関係をしっかり結ぶ武士のたしなみとしての役割もあったようです。つまり上の地位のものからすれば、肉体関係を結ぶことで、自分を裏切らない従順な家臣を育てることになります。

また家臣にとっては出世の近道となりますし、勇猛な武将と関係を持つことで、自らもその武将のように強くなれるという信仰もありました。武士間では同性愛はたしなみこそすれ蔑まれることではなかったのです。

中世の室町時代に盛んになった

日本の同性愛の歴史は古く、平安時代にはすでに存在していました。主に僧侶の間に男色文化は広まっていたのです。仏教では僧侶は女性と交わってはならないという戒律がありましたが、男性と交わってはならないという掟はなかったのです。そのため稚児少年が性欲のはけ口となっていました。

そして平安時代に寺社と公家の関係が深かったため、その文化が公家へ普及。その後武士にも広がり、中世の室町時代に武士の男尊女卑やお家尊重の価値観と融合し、衆道は最盛期を迎えました。

主人との主従関係も衆道には存在した

武士の間で広まった衆道には、当然主従関係が含まれています。有名なところですと、織田信長と森蘭丸や前田利家でしょうか。

歴史に名を残している武将のほとんどがたしなみとして、男色の経験があったとされています。徳川家康と井伊直政、伊達政宗と片倉小十郎なども有名ですね。

衆道は武士のたしなみとされ作法まであったので、有名武将のほぼ九割近くが男色の経験があったのではないかとされています。ちなみに、同性愛に興味がなかったのは豊臣秀吉くらいでしょうか。

これだけ広まった背景はさまざまありますが、その一つは主従関係を確固たるものにするという役割が衆道にはあったことです。裏切らない家臣をつくる。打算として当主に取り入る。そのような出世の道の一つが衆道でした。

始まりは女人禁制の戦場で使える美少年だった

武士の出世への道筋となった衆道ですが、始まりは女人禁制の戦場で武士に仕える美少年でした。武士も戦場で働くだけではなくさまざまな仕事があります。そのため、現代でいえば秘書のような役割の少年をそばに置く必要があったのです。その少年のことをお小姓といいます。

お小姓の仕事内容は多岐にわたります。来客の取り次ぎをしたり、着替えや風呂で体を洗うといった身の回りの世話などです。その中に寝所をともにするというものもありました。わかりやすくいえば男色です。

織田信長と衆道関係であったとされる小姓、森蘭丸や前田利家が代表的といえるでしょう。

天下太平の江戸時代には衆道は衰退した

江戸時代に入ると、衆道は庶民の間まで広がりました。茶屋などでは13〜20歳くらいの美少年が、客を相手に男娼をするまでになります。彼らを陰間と呼んでいました。彼らの多くは歌舞伎役者を目指す修行の身の上だったとされていて、料金は非常に高く、陰間遊びは吉原の遊女なみの金額だったそうです。

しかしそれほど繁栄をきわめた衆道も、江戸中期にはいると衰退の兆しを見せます。それは色恋の刀傷沙汰が頻繁に起きたり、主君への忠誠よりも恋を重要視するものが現れ始め、幕府の風俗取り締まりがきつくなったからです。衆道も例外ではなく取り締まりを受けるようになっていったのです。

明治時代前後は衆道の取り締まりが厳重になった

明治時代前後になると、衆道の取り締まりがさらに厳重になります。それは明治政府が西洋を規範に政策を推し進めたことと大きな関わりがあります。

西洋を目指して近代国家を作ろうとする明治政府にとっては、衆道は戦国時代の野蛮な風習にしか映らず、否定の対象となったのです。また、子孫繁栄をよしとする儒教的価値観に、厳しく同性愛を禁じる西洋のキリスト教的な価値観が加わり、同性愛はますます異端視されるようになっていきました。

わずかに旧制高校などの閉じられた空間で、男色文化は細々と生き残っていました。しかしそれも第二次世界大戦後の大がかりな学校改革で消滅。衆道の文化は潰えたのです。

歴史上に衆道の逸話が残る戦国武将

歴史上に衆道の逸話が残る戦国武将

美しく優秀だったとされる森蘭丸と織田信長の関係

衆道の中でも有名なのは織田信長と、その小姓であった森蘭丸。織田信長には万見仙千代というお小姓がいたのですが、有岡城攻めの際に亡くなります。その後をついで寵愛を受けたのが森蘭丸でした。

森蘭丸の正式名は森成利といい、一般に知られている蘭丸という幼名も本来は乱丸が正しいようです。彼は美少年の上に非常に頭が切れ、事務官僚としての役割をはたしていました。それは城を与えられるほどの寵愛ぶりです。

しかし蘭丸は城に城代を置き、自分自身は信長のそばにずっと付き添って身の回りの世話をしていました。お世話には着替えから、お風呂で体を洗う仕事、そして寝所を共にすることまで含まれていたとされています。しかしそれらは噂として残っているものの正式な記録としては残っていません。

本能寺の変では、信長のそばで最後まで戦ったとされています。享年はわずか18歳でした。

優秀で出世までした前田利家と織田信長の関係

家臣と衆道の関係であったという織田信長ですが、正式な記録が残っているのは前田利家だけです。前田利家は犬千代と呼ばれていた頃から信長のお小姓を務めていました。武勇に優れ、背もスラッと高い美丈夫だったそうです。

信長と利家の関係は、加賀藩の資料「亜相公身夜話」の「鶴の汁」という話に描かれています。安土城で宴会を開いた信長が、利家の髭に触れながら、若い頃衆道の関係であったこと家臣の前で匂わせたという話です。それを聞いた家臣たちは非常にうらやましがったというのが、戦国時代らしいです。

当時、衆道は武士のたしなみで作法を身につけこそすれ蔑まれるものではなかったのです。そして、実際に利家は出世をしていきました。衆道は従順な家臣を作りあげる手段であり、出世の道を足早に駆け上る手段でもあったのです。

ラブレターが存在する武田信玄と高坂昌信の関係

武田信玄の信頼が厚かったとされる高坂昌信。彼は武田四天王の一人でもありました。豪農の息子だったのですが、16歳のときに武田晴信(後の信玄)の奥近習として召し上げられました。

使番から100騎を預かる足軽大将となったのが1552年。春日禅正忠を名乗ります。モテたため女性から逃げ回り、「逃げの弾正」という異名がついたそうです。実はこの時期に信玄が昌信に当てて出したといわれているラブレターが存在しています。

東京大学所蔵の史料編纂所所蔵の「天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞」と呼ばれている文書で、浮気を否定し、相手に恋心を訴える文言でした。浮気の内容は「弥太郎に言い寄ったけれど、腹痛を理由に断られた。そのため夜伽をさせた事実はない。信じて欲しい」というものです。

実は最後の宛名の「春日源助どの」は後筆だという説もあります。それでも信玄に男性の恋人がいた可能性は高いでしょう。主君が家臣に対して誠意を込めて書いた恋文だと考えると胸が高鳴りませんか。

暗殺に関与した岡剛介と宇喜多直家の関係

岡剛介は、宇喜多家の家臣で美丈夫だったと伝えられています。彼が小姓として仕えていた宇喜多直家は戦国の梟雄とも称される謀略家で、刺客や毒殺などはお手の物。謀略により敵の大将や邪魔な者を亡き者にしてきた非常に腹黒い武将だったと言われています。

龍ノ口城を落とすのが難しかったとき、直家は城主?所元常が男色だと耳にします。そして直家自身が衆道の関係にあったとされる岡剛介なる美少年を城に送り込んだのです。結果、見事に剛介は色仕掛けにより元常の寝首をかくことができました。当時はまだ岡正三郎という幼名です。元服前の少年だったのですね。

自身のお気に入りの美童を敵に送り込むことからも、直家の性格が読み取れますね。

上杉謙信が寵愛したとされる上杉景虎

生涯不敗とは言いませんが、当時の大名の中でも断トツの勝率だった上杉謙信。彼は一生不犯を貫いたことでも知られています。一生不犯とは、生涯にわたって妻帯をしないこと、禁欲生活を送ることです。まず、子供は多ければ多いほどよい戦国時代において、この誓いはきわめて異質です。

実際、子供のいなかった謙信は景勝と景虎という2人の養子を迎え入れ、それが後の後継者争いを引き起こし、上杉家を衰退へと導いてしまいます。

上杉謙信も他の武将同様に、小姓には美少年を好みました。小田原の北条から北条氏秀が養子に来た際に、彼がとても美男子だったので気に入って、自分の幼名でもあった景虎の名を与えたそうです。妻帯しなかったことや、上杉景虎を寵愛していたということなどから、同性愛者説がささやかれているのです。

元々衆道にしか興味の無かった徳川家光

大奥がどのような理由でつくられたかご存じですか。実は徳川家光が男性にしか興味を示さない真性の同性愛者だったためです。

家光の男好きは子供の頃からでした。歌舞伎を好み、自分自身も化粧をして歌舞伎のまねごとをしていたそうです。気に入った小姓が他の男性と仲良くしていたという理由で切り捨てたり、かと思うとえこひいきをして非常に出世させたりと好き放題していました。

さて、困ったのは乳母として勢力を誇っていた春日の局。正室は冷遇され軟禁状態で、このままでは世継ぎができません。いろいろ策を練った上、大奥を家光のために作ったのでした。千人近い女性が集められたものの、相変わらず家光は興味を示さない。

それでお振という女性に男装させるという奇策にでます。春日の局の策は成功し、めでたく姫が生まれます。次に手を出したお万という尼のおかげで女性嫌いもなおり、別の女性との間に世継ぎも生まれました。

なんと、大奥が登場した理由は、家光が三十代になっても衆道を貫いていたということが理由。面白いとは思いませんか。

衆道の観点から戦国武将を見るのも面白い

衆道の観点から戦国武将を見るのも面白い

これまで見てきたように、戦国時代において衆道は武士のたしなみでした。明日をも知らぬ戦国の時代における武士たちの艶やかな関係がくり広がられていたのです。それは決して浮ついた心だけではなかったでしょう。

衆道関係を出世の糧とするもの、敵の寝首をかかせるために敵に刺客として送る者、裏切らない優秀な家臣を躾けるためなどさまざまです。当主と衆道関係にあった武将が、他の家臣からうらやましがられたように、衆道には色恋沙汰以上のさまざまな意味合いがあったということがわかります。

戦国時代を衆道の観点から眺めてみる。それにより、新しい視点から歴史を楽しむことができるのではないでしょうか。